アソシエイション「ネヴァー・マイ・ラヴ」、最初に録音した人は実は、、。
50年前の1967年11月27日、アソシエイションは3枚目のアルバムから2枚のゴールド・シングルが認定された。
その曲「ネヴァー・マイ・ラヴ」はドンとディックのアドリシ兄弟が書いたもので、アソシエイションのアルバム『Insight Out(邦題:ウィンディ)』からのファースト・シングルであり、グループとしての2番目の全米No.1シングル曲「ウィンディ」に続くセカンド・シングルだった。
バンドはこのアルバムからの2枚目「ネヴァー・マイ・ラヴ」に同様のチャート・アクションを期待したが残念なことにそれはかなわなかった。それでも2位まで上昇したことは特筆すべきことだった。
「ネヴァー・マイ・ラヴ」はその後長期にわたり多くのカヴァー・ヴァージョンを生みチャートをにぎわした。
その結果、1999年「ネヴァー・マイ・ラヴ」は20世紀アメリカにおいて最もラジオでエアプレイされた楽曲の2位になる。それは1967年誕生以来32年間かけての偉業だった。
これは1999年時点での話。それ以後どれだけの数が放送されたかは神のみぞ知る、ということだ。(ライノUS)
このように継続的なラジオのオンエアによってアメリカ人であれば誰でもこの曲を知ってはいるが、誰が最初に録音したかを知る者はまずいない。実はそれは日本のアイドル4人組、ジャニーズだった。
彼らは踊って歌える国際的な活躍を夢見て人気絶頂の1966年(昭和41年)の夏、ジャニー社長号令の元、武者修行にアメリカ西海岸に出かけ、本格的な歌と踊りのトレーニングを重ねた。
その過程でレコーディングの話が浮上、カスケーズやアソシエイションなど男性ヴォーカル・グループを売り出すのが上手だったヴァリアント・レコードのオーナー及びプロデューサー、ソングライターのバリー・デボーゾンがジャニーズのレコーディングの指揮をとった。デボーゾンはレーベル子飼いのアドリシ兄弟に曲を発注、あおい輝彦のリード・ヴォーカルで「ネヴァー・マイ・ラヴ」は録音された。
だが、何かの事情で1967年正月、ジャニーズは日本に戻され、この録音はレコードになることはなかった。
そしてヴァリアントからワーナー・ブラザーズに移籍したアソシエイションが「ネヴァー・マイ・ラヴ」を録音、同年6月7日に発売したアルバム『Insight Out(邦題:ウィンディ)』に収録した。B面のトップに収録されていることから録音している時点で、プロデューサーのボーンズ・ハウの頭の中ではシングル曲候補だったに違いない。
もし、あの時ジャニーズがレコードを出していたら・・・とは思うが、いかがだろうか。
67年10月「Never My Love」はキング・レコードから「かなわぬ恋」という邦題でシングル盤が発売になった。本来なら米ワーナー・ブラザーズとのライセンス契約があった東芝音楽工業から出るはずだったが、ヴァリアントとのローカル契約が残っていたキングのロンドン・レーベルから、という変則的なリリースとなった(英国も同様)。
東芝音楽工業は翌68年9月1日満を持して全米1位の「ウィンディ」とのカップリングで「Never My Love」のシングル盤を再リリースした。
その際邦題は「ネバー・マイ・ラブ」に変更されていた。ただ日本でも「かなわぬ恋」として多少ヒットしていたため、無用な混乱を避ける意図で括弧付の(かなわぬ恋)を併記したのだった。
「君はいつか僕が君に飽きるんじゃないか、愛の炎が消えてしまうんじゃないか、と訊いたね。でも、そんなことは絶対にないよ、愛する人よ・・・」
という歌詞からすると「かなわぬ恋」はまずいと判断したのだろう。
1970年ワーナー・ブラザーズとパイオニアとの合弁レコード会社、ワーナー・ブラザーズ・パイオニアが出来ると「Never My Love」は三回目のシングル盤とになって発売された。そのとき邦題は東芝に倣って「ネヴァー・マイ・ラヴ(かなわぬ恋)」となっていた。今もそれを踏襲している。
12月27日にリリースされる注目のコンピレーション『DJ 糸居五郎 黄金のレイディオ・ヒッツ ゴー・ゴー・ゴ!! 』にも「ネヴァー・マイ・ラヴ(かなわぬ恋)」は収録される。
(宮治淳一)
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