エレクトロニックの1stアルバムのリリース30周年を記念して、ジョニー・マーがインタビューに答えた!

先週にはペット・ショップ・ボーイズのライヴ作品『ディスカヴァリー:ライヴ・イン・リオ 1994』、そして来週はニュー・オーダーのライヴ作品『エデュケーション・エンターテイメント・リクリエーション』と、最重要UKアクトのリリースが続く中、エレクトロニックのセルフタイトルの1stアルバムが、リリースから30周年を迎えました。

エレクトロニックとは、ニュー・オーダーのボーカル/ギタリスト、バーナード・サムナーと、ザ・スミスの脱退後にザ・ザに加わっていたギタリスト、ジョニー・マーの二人によるユニット。1989年にシングル「ゲッティング・アウェイ・ウィズ・イット」をリリース、一躍脚光を集め、91年に1stアルバムをリリース。90年代の終焉までに3枚のアルバムをリリースしています。

そのシングル「ゲッティング・アウェイ・ウィズ・イット」及び1stアルバムには、ゲストという形で、ペット・ショップ・ボーイズの二人、ニール・テナントとクリス・ロウが参加。また、ジョニー・マーがザ・スミスからの脱退後に加入したザ・ザのドラマー、デヴィッド・パーマーなども参加しており、90年代初頭のUKミュージックシーンを象徴するプロジェクトとして、注目を集めました。

そしてこの度、1991年5月27日だったその1stアルバムのリリースから30周年を迎え、ジョニー・マーが、この作品に関してインタビューに答えました。このインタビューは今年5月21日に行われた最新のもので、エレクトリックを始めた経緯や、この1stアルバムの制作過程が克明に語られています。

Warner Music Lifeではこのインタビューを3回にわけて公開していきます。

まずはその第1弾。マンチェスターを襲ったレイヴの大波に呼応する形で誕生したこのプロジェクトのスタートについて語っています!

ぜひ「エレクトロニック」を聴きながらお読みください!


ジョニー・マー エレクトロニック30周年記念インタビュー①


「ハウス・ミュージック、テクノトロニック、MIDI、マッキントッシュ・コンピュータ、フレア、808 State、S'Express、クラブ・カルチャー。僕らが始めてから1週間後にはすべてが始まっていたんだ。」


<インタビュアー>30年経った今、このアルバムを振り返ってみて、どのような感想をお持ちですか? 

<JM> このアルバムを聴くと、時間と場所の感覚が強くよみがえってくる。というのも、バーナードと僕が置かれていたのは、とても変わった時代だったからね。まだ若かった僕は、ザ・スミスの解散の影響や、舞台裏やメディアで起きている多くの無意味なことに、日常的に対処していた。そんな時、僕はバーナードと一緒に、とてもエキサイティングで一種のミステリアスな冒険のようなものに乗り出したんだ。さらに重要なことは、僕たちが旅をしている間に、僕たちの後を追って、まるで津波のように、僕たちの街の文化に完全な革命が起きていることに気づいたんだ。 バーナードと僕が一緒になったとき、最初は、もちろん音楽的な課題があったけど、僕たちはそれを楽しんだんだ。今になって振り返ってみると、マンチェスターの強烈なグループにいたことで、お互いにちょっとした聖域を探しているようなところがあった。僕たちはお互いのことを知ることができて、すぐに打ち解けたよ。そして、バーニーが僕の家に引っ越してきて、エレクトロニックが僕たちの仕事になった。同じ時期に、僕たちが知らないうちにエクスタシーが到来し、誰も想像していなかったことだけど、ハシエンダ(マンチェスターにあった、ニュー・オーダーが所属していたレーベルの「ファクトリー」が経営するクラブ)が突然満員になり始めたんだ。ハウス・ミュージック、テクノトロニック、MIDI、マッキントッシュ・コンピュータ、フレア、808 State、S'Express、クラブ・カルチャー。僕らが始めてから1週間後にはすべてが始まっていたんだ。そして、気がついたら他の人たちと一緒になって、その真っ只中にいて、その影響を受けていて、その影響によって人々に影響を与えていた。僕の場合、まだ24歳で、故郷が突然、宇宙の中心になり、そして僕は新しい作曲家のパートナーを得て、毎日のように仕事をして、僕たちはあっという間に勢いを増していった。驚くべき時間だった。だから、曲の中にそのすべてを感じるんだ。 

<インタビュアー>あなた方は、そのような爆発的な状況の中でエレクトロニックを生み出したわけですね。

<JM> そう。マイク・ピカリング、808 Stateのグラハム・マッセイ、ロンドンのマーク・ムーア、ボーイズ・オウン(若者向けの雑誌)の人たち、ダニー・ランプリング(イビザのスタイルをイギリスに持ち込んだ大物DJ)、ポール・オークンフォールド、Shoom(クラブ・イベント)の面々なんかがいて、クラブカルチャーやポップカルチャーで起こっていることに影響を受けている人たちが勢ぞろいしていたよ。あとは外の世界で、政治的に起こっていることにも影響を受けていたな。そしてもちろんクラブに通うだけの人もいて、これらはすべて、僕たちが共同作業を始めたばかりの頃の話だ。自分たちがどうなるのか、本当に計画があったわけではなくって、まさかスーパーグループになるとは思ってもいなかった。僕たちは単純すぎたんだ。でも、ニール・テナントとクリス・ロウが参加したらどうなると思う?最初のシングルがアメリカで大ヒットになるなんて。ニールとクリスが早い段階で参加したことが、重要だったね。

<インタビュアー>彼らと一緒に「ゲッティング・アウェイ・ウィズ・イット」を制作したときのことを、どのように覚えていますか?

<JM>「ゲッティング・アウェイ・ウィズ・イット」は、ペット・ショップ・ボーイズとバーナードと僕に共通の友人がいたことがきっかけだった。バーナードがニュー・オーダーとは別に何かをやっていて、それを僕と一緒にやっているという話が広まったんだ。ニールとクリスは、ダスティ・スプリングフィールドやライザ・ミネリ、デヴィッド・ボウイなど、常にクリエイティブなコラボレーションを行っていたけど、僕たちはあくまでも友人同士の付き合い。でも、バーナードと僕は、熱心にアイデアを練っていた。そして、ニールとクリスを、初めてハシエンダにつれていく計画を立てたんだ。バーナードと僕は、最初は自宅の寝室で作業をしていたんだけど、その後、自宅にもっと手の込んだスタジオを作った。僕はいつも、どんな種類のコラボレーションでも、手ぶらではない状態で臨むようにしていて、ニールとクリスが到着する前日か、たぶん彼らが到着した当日、土曜日の午後にスタジオに入って曲を書いた。最初に何かが必要だったので、コーラスを書いた。このときの録音は、後に「ゲッティング・アウェイ・ウィズ・イット」のインストゥルメンタルになったんだけど、僕はコードとトップラインを書き、当時僕の家に住んでいたデヴィッド・パーマーが、彼は僕と一緒にThe Theに参加していたけど、ABCのメンバーとしてもよく知られているね、デヴィッドがドラムのプログラミングをしたんだ。ニールとクリスが来る頃には、音楽の塊がぐるぐると回っていて、それが「ゲッティング・アウェイ・ウィズ・イット」のサビになったんだ。ニールはすぐに歌詞のフックを思いついたようで、彼は歌詞を書こうとしていた。それからバーナードがヴァースのコードを考え、クリスがベースラインを担当し、ニールが「この部分を2回まわすべきだ」と言ってアレンジしたのを覚えてる。つまり、4人全員が材料を揃えて、バックトラックを作ったのさ。そして、みんなでハシエンダに行ったんだ。 次の日、午後にまた集まって、2曲目の「ザ・ペイシェンス・オブ・ア・セイント」を一緒に書いた。この曲は、クリスのアイデアで始まったもので、ドリーミーで、ダウナーな雰囲気を持った曲。なるほどだよね(笑)。 

<インタビュアー>「ゲッティング・アウェイ・ウィズ・イット」では、ほんの少しだけソロを披露していますね。これは、これまでとは異なる枠組みの中で、新たに創造的な自由を手に入れたことの表れでしょうか?

<JM> そうだね。このアルバム全体が、僕が創造的な変化を遂げた結果であることは間違いない。以前から言われていることだけど、あのアルバムで僕がギターを弾いたのは、バーナードに棒で頭を殴られていたためと言っても過言ではないよ。僕は「キーボードを弾きたい」と言っていたんだ。彼は「みんなが僕を責めるだろう」と言い続けていたよ。でも、トラックができたとき、ニールが歌詞を書いてバーナードが歌って、ニールがバッキング・ヴォーカルを担当したけど、そこにはサウンド的な穴があって、ギターソロが必要だとずっと思っていたんだ。今にして思えば、イビザのクラブっぽいサウンドにしようと思っていたのかもしれない。当時はそんな風に考えていた。アコースティック・ギターのソロは、あれが初めてだったと思う。ザ・スミスの最後の作品でもこっそりソロを弾いていたけど、僕にとってはちょっとした逸脱と言えるね。やってよかったと思っているよ。

<インタビュアー>「ゲッティング・アウェイ・ウィズ・イット」がヒットしたとき、エレクトロニックがどのようなものになるか、正しい方向に向かっていることを示すものだと感じましたか?

<JM> いや、それよりも、「ヤバい、アルバムを作って、いいものにしなきゃ!」という気持ちの方が強かったね。当然のことながら、ニールとクリスが参加したことで、僕たちは大きな方向性を得ることができた。なぜそんなことを言うかというと、バーナードと僕で始めたとき、プロジェクトとしての目標は持っていなくて、漠然と、1~2年の間にファクトリーからアシッドハウスの12インチを無名で出してみようと思っていた程度で。そこはちょっと単純すぎたね。あとは、デヴィッド・バーンとブライアン・イーノが示した例だね。2つのグループの2人が一緒になって、スタジオを楽器として使うという…。ラップトップPCでスタジオ作業ができるようになる何年も前のことで。いまでは、人々は地下室や寝室でレコードを作っているけど、当時そうしている例はあまりなかったんだ。デュオと言うところがミソなんだよ。僕たちのようにマンチェスターの厳格な4ピース・ギター・グループに所属していたものは、デュオにすることで、ゲスト・シンガーを招いたり、ゲスト・プロデューサーを招いたりして、コラボレーションできるという考えを持っていたんだ。自分たちが使いたいと思った技術は何でも使う。エンニオ・モリコーネの映画からのサンプルを使いたいと思えば、そうするし。テクノトロニックにリミックスをしてもらいたければ、そうする。これは、僕とバーナードにとって、とても斬新なアイデアだったんだ。でも、同じようなことを考えている仲間がいることがわかってきた。S'Expressのマーク・ムーアには本当に感銘を受けたし、バーナードはテクノトロニックとコラボレーションしていた。ネリー・フーパーがマッシヴ・アタックで行っていることにも注目していた。すべて新鮮だった。特に僕にとっては、マスコミからの影響を避けようとしていて、ほとんど統合失調症のような感じだったし、当時はザ・ザのメンバーでもあったからね。僕にとってはとても新しくクリエイティブなことだった。まだ若かったし、マンチェスターの仲間たちは、バンドに所属しているかどうかにかかわらず、朝起きると、新しいファッション、新しい音楽、新しいサウンド、新しいグラフィック、新しいテクノロジー、そういったことをこなすための新しいドラッグなど、まったく新しい世界が広がっていた。一種の文化革命だったと言ってもいいと思うよ。


第2回に続く・・・

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