【インタビュー】デイヴィッド・カヴァデールが語る、ホワイトスネイクのトリロジー・プロジェクト、そしてホワイトスネイクの今後(後編)

インタビューの前編はこちら:https://wmlife.themedia.jp/posts/8833990

――長きにわたる音楽活動のなかで、曲作りをするうえでのあなたご自身のモチヴェーションは、どのように変化してきましたか? また、歌詞を書く際に頭のなかに想い浮かべるドラマや情景といったものも、80年代と現在とでは違ってきているのではないかと思うんですが、いかがでしょう?

デイヴィッド・カヴァデール(以下D):興味深い指摘だね。というのも私が書くものはある意味、すべてラヴソングだからだ。先日、妻とふたりで車の中にいて、ホワイトスネイクのラヴソングが流れていたんだが「どんな気分だい? ここにある曲はすべて君についてのものなんだが」と言ったくらいだ(笑)。妻との関係には、実に興味深いものがある。一緒になってから、今年の11月で30年になるが、彼女は私の人生における最大のインスピレーションになっている。ダークな部分に関してもね。たとえば“ハート・オブ・ストーン”(2019年発表の現時点での最新オリジナル作、『フレッシュ&ブラッド』に収録)のように音楽的なテーマがダークなものであってもね。そこでクリエイティヴな想像力を駆使して、「もしも我々の関係が破綻してしまったら、この関係に課題が生まれたとしたら、一体どうなるだろう?」と想いを膨らませながら、正直かつ誠実にああいう内容の歌詞を書くわけだ。

 我々が恋に落ちて、私が彼女のために書いたごく最初の曲といえば『カヴァデール・ペイジ』(1993年)の“テイク・ア・ルック・アット・ユアセルフ”といったところだ。付き合い始めてから1~2年が経っていたんだが、我々が親友と呼べる関係にあり、素晴らしいパートナーであることはその時点ですでに明らかだった。今回のロックダウンでも、幸いにも美しくて大きな家に暮らしているんで、必要とあらばお互い距離を設けることもできるんだが、我々はとてもうまく共存できている。

 この時期の私は、もちろんネット上にときどき〈お楽しみの曲〉を提供しているばかりじゃなく、通常の曲作りもしている。だがこんな事態になるなど誰も予想していなかったから、仲間のミュージシャンたちにはその準備ができていない。彼らにはホーム・スタジオがないんだ。私自身、自分のスタジオであるHOOK CITYに行くことができなかった。我が家の玄関からスタジオまではわずか7分しかかからないんだが、ロックダウンのために行けなかったんだ。というのも息子とそのガールフレンドが、うちのスタジオで隔離生活を送ることにしたからでもあるんだがね。その彼らがロサンゼルスに戻ったんで、私はようやくスタジオを使えるようになった。実は昨日、その完全消毒済みの建物のなかで、私のクリエイティヴ・チームとの間で今後についての最初のミーティングが行なわれたんだ。かなり興味深いアイデアが出てきているよ。その件についてはまだ口にできないけどもね(笑)。

 クリエイティヴな状態にある時は、かならず何かが自然に湧き上がってくるものだ。そこから素晴らしいアイデアが生まれてくるんだよ。私は今もなお、曲を作るという作業にエキサイトしている。私の引退について、我々は何度話をしたことだろう? 冗談じゃない! 今から1~2年前のことだが、妻は私に〈引退〉という言葉を使うことを禁止した。というのも、いつ何が起こるかわからないからだ。たとえば誰かから「これはどうでしょう?」といったアプローチがあって「本当に? それは興味深いな!」と思わされる場合もある。


――素晴らしいアイデアが次々に出てくることでキャリアが続いていく、というのは理想的ですね。そういえば、先日、ラジオで「69歳で引退する」と発言したのは、単なる冗談だったんですよね?

D:その通りだ。話が大きくなってしまい、すまなかった(笑)。あれは、私のような者にとって69歳という年齢ほど引退に相応しい年齢はないんじゃないか、というジョークでしかなかった。その数字が何を意味するかは言わなくてもわかるよね?(笑)というわけで、私はまたしても引退からほど遠いところいるというわけだよ! しかも私は、本当にリスペクトできる人たちと仕事ができていて、彼らの側も私に敬意をもって接してくれている。ワーナー・ブラザーズの人たちもそうだ。彼らと手を組むのは何だかんだで3回目ということになるが、素晴らしい内容の契約を交わすことができたし、今後5~7年ほど、一緒に作業に取り組んでいくことになる。しかし……ああ、彼らとのプロジェクトが終わる頃、私かすっかり70代になっているというわけだ。ううっ(笑)。


――年齢のことはどうあれ、ビジネス上のパートナーシップが良い形で成立した状態にあるわけですね。あなたはこれまで、さまざまなミュージシャンと組んで曲作りを重ねてきたわけですが、そうした作曲上のパートナーには何を求めますか?

D:まず、自然じゃないといけないんだ。マネージメントなどがよくアーティストに対して言うのは、「自分で曲を書け!」ということ。だから私自身もかつて、コードをいくつか覚えると、すぐに詞や曲を書き始めた。つまり、子供の頃から曲作りをしていたんだ(笑)。ただ、私は、金銭的な利益のために曲を書いたことはない。この世界にはpublishing(出版)という不思議なものがあって、誰もがその版権を欲しがるんだが、成功せずにいるうちはそんなものには何の意味もなかった。だからそもそも私の曲作りに対する原動力というか衝動は、表現によってもたらされるものだったし、それは今も変わらない。この2~3年の間に私がレコーディングしたものは、妻のシンディの誕生日や我々の結婚記念日のために書いた曲であり、アルバムに収録するつもりなどなかった。ところが、その曲を聴いた私のチームの誰かが「これはやらないわけにいかない!」と言いだした。そしてもちろん、レコーディングしたものは大成功を収めたというわけだ。

 だが私は、今も変わらず、曲作りの喜びのため、そして自分を表現するために書いている。だから、私と同じようなヴィジョンの持ち主を見つけられれば、とてもうまくいくんだ。私が曲作りをともにしてきた顔ぶれを思い出してごらんよ。ジミー・ペイジもいたし、リッチー・ブラックモアもいた! 50年経ってもいまだ色褪せない曲を書いてきた人たちだ。そこで唯一、古臭くなっているのはサウンドなんだよ。もちろんディープ・パープル在籍時の作品のサウンドは、70年代前半当時のものとしては最高レベルのものだったけども、仮にそれが当時における世界一のロック・ミックスだったとしても、いつしか古くなっていく。今、あの頃の楽曲について誰が管理しているのか、私は知らない。ミュージシャンには知る権利がないんだ。ただ、あれを今の技術でミックスしたなら、実際にレコーディングした当時のような新鮮な状態のものにすることができる。ディープ・パープル時代の作品はマーティン・バーチの手により見事にレコーディングされたものだから、相応のクオリティは伴っている。あとはそれを今風にすればいいだけのことだ。私に言わせれば、あれは崩れかかった家のようなものだから、塗装や改装が必要なんだ(笑)。

 私がディープ・パープルにいた3年間は、私がメイン・ソングライターだった。だから、彼らへのトリビュートとして引退アルバムを作った。素晴らしいメンバー達へのトリビュートと尊重と感謝の気持ちを込めてね。ジョン・ロード、リッチー・ブラックモア、グレン・ヒューズ、そしてイアン・ペイスは、ナルニア国に通じる衣装箪笥を開けるための鍵を私にくれたんだ。あのおかげで、私の全人生が変わった。ディープ・パープルに加入したことによって、単に状況が変わっただけでなく、私の全人生が変わったんだ。いまだに続いている冒険の旅に私を連れ出してくれたんだよ。


――なるほど。話は変わりますが、この『レッド・ホワイト・アンド・ブルース・トリロジー』のシリーズ以外に、ボックス・セットも引き続き登場してくることになるんですよね?

D:発売時期については定かではないが、ワーナーは『レストレス・ハート』(1997年)のボックスについて考えているようだ。10月あたりには出せるかもしれない。あのアルバムはアナログ盤で出たことがないし、ストリーミングされたこともない。しかもアメリカでリリースされたことがないんだ。あのアルバムのボックスということになれば、1枚目のディスクは新たなミックスによるもの、2枚目はオリジナル・ミックスのままだがリマスターを経てできる限り良い音にしたもの、3枚目はエイドリアン(・ヴァンデンバーグ)と私、もしくは私がひとりで作ったデモ、といった構成になるかもしれない。映像も山ほどある。今回の『ザ・ロック・アルバム』にも同作からの“エニシング・ユー・ウォント”が入っているが(当時の日本盤にはボーナス・トラックとして収録)、この曲のビデオも作ったし、これは私のお気に入りのミドル・テンポ曲でもある。あのアルバムには私自身が気に入っている〈カヴァデール・ヴォーカル〉の曲がいくつか含まれているんだ。

 そうしたボックス・セットについても、熱心なファンだけのためのものではないから、できるだけ手頃な価格設定にしようと努めている。ただ、これまで出してきたボックスについても、内容が希薄だというような不満は聞こえてきていないよ。むしろホワイトスネイクのボックス・セットこそが、〈ファンが何を求めているか〉ということに対する模範解答であり、他のアーティストもそれを手本にすべきだと言ってくれる人が多い。なにしろデモ音源などではその曲のオリジナル・アイデアに触れることができるわけでね。たとえば “エニシング・ユー・ウォント”のために私が書いたオリジナルの歌詞は、“Red Light Green Light”だった。だから、元々は“Give me the red light green light, stop or go, come on baby please let me know”と歌っていたんだ。笑えるよね(笑)。それを、“Let it roll, let it ride, I’ll be your dog”に変えたんだよ。そういった曲の進化の過程をみんなは聴くことになる。つまり結果的にアルバムでは採用されなかったアイデアの一部が聴けるわけだが、そうした側面がホワイトスネイクのボックス・セットが高い人気を得ている理由のひとつになっているんだ。

 特に『レストレス・ハート』と『カヴァデール・ペイジ』に関しては舞台裏の映像がたくさんある。『グッド・トゥ・ビー・バッド』や『フォーエヴァーモア』にもね。ホワイトスネイクをサポートしてきてくれた人たちには、そうしたものが分け与えられるべきだ。加えて私としては、彼らが愛してくれている曲を私が台無しにしなかったことを、彼らに再確認してもらいたいんだ。もちろんこれらは私が愛している曲たちでもあるわけだが、だからこそそれをアップデートする必要があったんだよ。昔のミックスでは、私の声の録音レベルがかなり低いものもあった。それをバンド・サウンドの一部にするためにね。今度の新しいミックスでは、ミスター・カヴァデールの声が前面に押し出されている! はははは! だから、すべてがちゃんと聴こえるんだ。“Oh baby, Ohh!”といったところもね!(笑)


――最後に、あなたとの再会を待ち焦がれている日本のファンへのメッセージをお願いします。

D:心が痛むよ。私は、自分の健康上の理由から日本公演を中止せざるを得なくなったことに、打ちのめされている。そういえば、札幌には私のお気に入りの寿司屋があってね。とても小柄な若い大将がいる店なんだが、あそこの寿司は最高だった。朝の3時か4時に水揚げされた魚を、東京に送られる前に手に入れていた。まさしく息を呑むような寿司だったよ。だから、私のバンドやアシスタントをその店に連れて行くのを楽しみにしていたんだがね……。しかしとにかく、日本に行くのはいつだって楽しい。君たちは何十年にもわたって私の面倒をよく見てきてくれた。70年代半ばのディープ・パープルの頃からね! 素晴らしいよ。日本ツアーは毎回ソールドアウトだし、それは日本のファンとホワイトスネイクを繋ぐ絆の強さの証だと思っている。とても光栄なことだし、私は日本のファンに感謝している。だから、日本に行ってまた君たちのために歌い、私の物語を語れることを心の底から願っている。そしてその頃には、世界が安全でより良いところになっていることを願っているよ。


インタビュー: 増田勇一

0コメント

  • 1000 / 1000