エレクトロニック1stアルバム30周年記念 ジョニー・マー インタビュー ③

ニュー・オーダーのバーナード・サムナー、ザ・スミス〜ザ・ザのジョニー・マーの二人が、バンドにとらわれない自由な創作活動の場として結成した、エレクトロニック。91年リリースの彼らの1stアルバムから30周年を迎え、ジョニー・マーが当時を振り返るインタビューに答えました。 

第1部では、結成のいきさつや、シングル、「ゲッティング・アウェイ・ウィズ・イット」についてを、第2部ではバーナード・サムナーとの共同生活についてや、LAでのライヴのことなどを語っています。

第1部


そして最終回となる第3部となります。

ぜひ今回もアルバムを聴きながらお楽しみください!

ジョニー・マー エレクトロニック30周年記念インタビュー ③

ニュー・オーダーでは、彼はリードシンガーであると同時にミュージシャンでもある。だから、一緒に仕事をすることになった時、シンガーではなくミュージシャンとして一緒に仕事をした。バッキングトラックを周到に用意して、最後にボーカルが入るのを待つ。ギタリストは共同作業が好きだからね。


<インタビュアー>当初はホワイトレーベルで何枚か出すつもりだったとのことですが、シングル「ゲッティング・アウェイ・ウィズ・イット」からアルバム発売まで時間がかかったのはそのためですか? また、メロディーメーカー誌が「史上最高のアルバム」と評しましたが、そのような反響を期待していましたか?

<JM>僕が「ホワイトレーベルをやる」と言ったのは事実だけど、いずれにせよアルバムは作っただろうね。ただ、何を作るかは決めていなかったってこと。僕たちは共通の話題を探していた。二人ともエンニオ・モリコーネが好きだということは重要なことだった。二人ともシックが好きだということも。それに二人ともデヴィッド・ボウイの「ロー」が大好きだったことはとても重要だった。エレクトロニックの前に、僕は「ロー」にハマって、ザ・スミスの最後のアルバムで、1曲エミュレーター(サンプラー)で曲を作った。それが「Last Night I Dreamt That Somebody Loved Me」という曲の冒頭に使われ、偶然にもザ・スミスの曲の中で僕が一番好きなんだ。Emulator IIはとても高価だったので借り物だったけど、これは僕がEmulator IIを使って実験した成果で、「ロー」にインスパイアされたものなんだ。バーナードと僕は、ソングライティングとギターの観点から、こういった共通の基準を持っていたんだ。あとはキンクスも重要だった。2人ともキンクスが大好きだからね。で、その頃、ハシエンダで起きていたことが、速いスピードでレイヴ・カルチャーという大きな波となっていたんだ− 僕たちが始めた頃はアシッド・ハウスだった。だからその時、ホワイトレーベルでなにかだそう、と思ったんだ。ほとんど無名で出すつもりだった。それで、アルバムの制作に時間がかかった理由は、僕がまだザ・ザと仕事をしていたことと、バーナードがニュー・オーダーの仕事を抱えていたことだね。でも本当は、アイデアが多すぎたからというのもあるね。それ自体は良いことだけど、じゅうぶんに固まっていなかったんだ。でも、アルバムが発売されると、その評判の良さに驚いた。プレスリリースが出た日のことを覚えているけど、オフィスで「メロディーメーカー誌やローリング・ストーン誌に素晴らしいレビューが掲載されたね」と言われたよ。裏ではまだ第三者からザ・スミスに戻るようにプレッシャーをかけられていたから、僕は何か自分がやっていることの正当性が証明されたような気がしたよ。特に「ゲット・ザ・メッセージ」でバーナードがやったことを聴いたときにね。僕にとって、自分の仕事、つまり音楽以外でその正当性を証明するものはないから。このアルバムは、確かトップ10に入ったかな。トップ5にも入ったかも。2位?そうだったね。 

<インタビュアー>あなたは、ディヴィッド・バーンとブライアン・イーノのコラボレーションに影響を受けたと言っていましたが、それは相反するスタイルが一緒になったということですよね。いま、ますます音楽はジャンルにとらわれなくなっていますが、このアルバムは、その後のダンス・ミュージックに影響を与えたと思いますか?

<JM>そうだね。でも、今のシーンは当時の他のレコードにも影響を受けているよ。僕だけかもしれないけど、808 Stateの音楽は今も健在でそれを感じるね。それに、僕たちはポップグループでいながら、かなり革新的な精神を持っていた。インディーズ精神とまでは言わないけど、ジョイ・ディビジョンやザ・スミスにいたから、一般ウケを念頭に置いた音楽を書いていても、バーナードと僕は決してそれが売れ線の音楽だとは思っていなかったよ。

<インタビュアー>そこには何か裏がありそうですね。

<JM>まあそうだね。そういえば、今思い出したけど、ジョージ・マイケルが「フィール・エヴリ・ビート」を気に入ってくれて、彼はあちこちに出没していたんだけど、ある時彼に会ったとき、「フィール・エヴリ・ビート」のグルーヴとピアノのことをいろいろ聞かれたんだよ。彼は楽しくていいやつだった。
でも、数年来、インディーズのギターグループがシーケンサーを使って演奏することが当たり前になってきて、エレクトロニックを彷彿とさせるような音を耳にするようになったけど、彼らは必ずしもエレクトロニックに影響を受けたわけではなく、僕たちよりあとだけど、同じアイデアをもっただけだと思うよ。 

<インタビュアー>エレクトロニックのどのような点が、コラボレーションのための自然な空間となったのでしょうか?

<JM>いい質問だね。答えはわかっているよ。バーナードと僕は、リードシンガーではなく、バンドのギタリストとしてスタートしたからだよ。バーナード・サムナーがリードシンガーとして成功し、確立したのは、彼は常に脚光を浴びていなければならない、というような愚かな精神を持っていないからなんだよ。ニュー・オーダーでは、彼はリードシンガーであると同時にミュージシャンでもある。だから、一緒に仕事をすることになった時、シンガーではなくミュージシャンとして一緒に仕事をした。バッキングトラックを周到に用意して、最後にボーカルが入るのを待つ。ギタリストは共同作業が好きだからね。バーナードはまずギタリストであり、僕は普通のリード・シンガーではない人と一緒に仕事をするんだ。(ザ・ザの)マット・ジョンソンも同じように、ギターを弾くシンガーで、彼もかなり多くの人とコラボレーションしているよね。つまり音楽のための音楽愛があって、おかしなエゴはないってこと。それがひとつ。
それと、エレクトロニックとその時代を切り離すことはできないということ。DJ文化が本格化していたとは言えないけど、リミックスというアートが始まっていたので、自分の作品を一つの形に守ろうとせず、よりオープンにしていく方へ向かっていた。なぜなら、自分の曲を提供して、戻ってきたときに、一つも同じ音がないことほど素晴らしいことはないからね。僕たちは皆、こんなふうに考えていた。いい曲だと思う?クラフトワークと同じくらいいい?シックと同じくらいいい?それが僕たちの到達点だった。でも、バーナード自身にとっては、僕たちがなにであるかという、他のグループとは少しちがった課題が、エレクトロニックに課せられていたのだと思う。僕たちにはヒット曲があったからね。「ゲッティング・アウェイ・ウィズ・イット」の大ヒットのあと、「ゲット・ザ・メッセージ」もヒットし、セカンド・アルバム『レイズ・ザ・プレッシャー』の「フォー・ユー」や「フォービドゥン・シティ」もヒットした。つまり、かなり早い段階で、インタビューなどで自分たちが何者であるかと言う問いから逃れられないことがわかっただけでなく、ヒットが出始めたから、ホワイトレーベルを出しているような匿名のバンドではいられなくなったんだよ。嬉しいジレンマだけど、それが僕たちに影響を与えたね。よく知らないアシッドハウスのレコードを賞賛するのもとてもいいことだけど、僕たちはヒットすることを期待されていたんだ。評論家もそうだし、レーベルもそうだし、僕たち自身もそう思っていたかもね。すくなくとも僕はそう思っていた。

<インタビュアー>DJ文化について言及されましたね。あなたは80年代初頭にマンチェスターでDJをしていたと思います。ダンスフロアを満たす方法を知っているという意味で、エレクトロニックにその経験はなにかもたらしたのでしょうか。

<JM>その時代に役立ったのは、グルーヴについて知っていたことだね。僕は、ザ・スミスが結成される前に、街に出て行くついでにDJをしていた。1982年のことだけど、ハミルトン・ボハノンの「Let's Start The Dance」や、ナイル・ロジャースがプレイしているマテリアルの「I'm The One」とか、そういった曲が頭の中で離れなかったんだ。だから、ダンスフロア向けの曲を作るときには、参考にしたよ。骨の髄まで染み込んでいるからね。ダンス・ミュージックでのギターやキーボードの弾き方は知っていたから、実際にギターを弾いたり、ベースラインのプログラミングをした時とかに役立ったよ。つまり、ポストパンク/ディスコだね。例えば、「リアリティ」のベースラインには、完全なイタリアンハウスが使われてるんだ。早くこういうことをやりたかったんだよね。あれがエレクトロニックとして最初の完全なバッキング・トラックだったと思う。バーナードは、僕にギターを弾くように強く勧めてきたけど、僕は「いや、これはシンセ・トラックのままにしておこう」って思ってたよ。僕がプログラミングについて学んだことは、すべてエレクトロニックで学んだこと。ギター中心の音楽から脱却するためのテクニックをたくさん学んだけど、それをまたギター中心に戻し、今に至るのさ。プログラミングで学んだことを話すのは、そういう専門の雑誌みたいになっちゃうけど、レコード制作について本当にたくさんのことを学んだから、当時のことは記憶に残っているんだ。


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