【第1回】ミュージシャン、音楽プロデューサーの西寺郷太氏(NONA REEVES)が名盤『1999』のスーパー・デラックス・エディションの聴きどころを4回に分けて徹底解説する連載が公開!!
プリンスは、1994年にリリースしたアルバム《Come》のジャケットに「1958-1993」と刻み、周囲を困惑させました。
30代半ば、脂の乗り切った状態の彼は、「1993年で、プリンスはすでに死んだ」と突然宣言したんです。
正直に言えば、1992年に発表された〈マイ・ネーム・イズ・プリンス〉というシングルで「俺の名前はプリンスだ!」と連呼していたイメージが強かったものですから、当時の僕は「え?最近まで、『プリンス、プリンス』改めて、大きい声で言ってましたやん!」などと思ったものですが、「殿下」が言うのならば、そうなのでしょうと受け止めるしかありませんでした。
それよりも今になって、改めて何度も考えるのが、《Come》のアルバム・ジャケットに込められた彼のメッセージ。天才建築家アントニ・ガウディが手がけたバルセロナの巨大教会サグラダ・ファミリアをバックに、自信に満ちた表情ですっくと立つプリンスの全身が、モノトーンの色彩で収められていたのですが……。
1882年に着工し、当時も今も未完の(2026年にめでたく完成するそうですが)この歴史的建造物を、敢えてわざわざ『遺影』の撮影場所に選んだプリンスの強い意思。
ここ三年、貴重音源のリリース・ラッシュを浴びるように体感する中で、主亡き後も彼が遺した音楽を次世代に伝承してゆく大切さと、敢えてすべての楽曲をリアルタイムでリリースしなかった(出来なかった)プリンスの「先見性」について、改めて考えているところです。
2016年4月に、57歳の若さで亡くなるまでの38年間。一度も長期停滞や休息のないまま、膨大な作品をリリースし、ライヴやアフター・ショーを続けたプリンス。
彼を知れば知るほど、追いかければ追いかけるほどに稀代のワーカホリックであり、音楽を愛し、音楽にも愛された「20-21世紀を代表するソングライター、パフォーマー、プロデューサー」の全貌を掴むことなど出来ないと思い知ることになります。
しかし、まさにガウディの遺した圧倒的な建造物と同じように、彼が生み出し、響かせ、記録した音楽は「掘り起こし」た我々に、時を重ねるごとに少しずつ少しずつ本来の凄みを教えてくれます。
彼がデビューした、1970年代末の音楽世界。ロック、ポップ、フォーク、ソウル、ファンクなど新しく生まれた文化が渾然一体と存在していた1960年代以上に、むしろ人種や性別による音楽のボーダー、スタイルが硬直化していたように思えます。そんな中、時には白人層、黒人層、双方からの誹謗中傷を浴びながらもプリンスは独自の「ブレンド」によって、新たな音楽世界を築きあげました。
リアルタイムで追いかけた世代は(当時にしては)量と速度が圧倒的過ぎて。ネットのない時代ですから情報をキャッチし、把握するだけでも相当余分なエネルギーを必要としました。だからこそ生まれた情熱や、ある種の宗教のような彼に対する信奉心もあるわけですが。
素直に作った曲を全部発表したかっただけの多作家プリンスにとっても、当時のレコード業界の「常識」「ルール」は、ストレスが大きかったはずです。そう考えると、僕は思うんです。もしかするとプリンスが「変えた」音楽世界を生きる、新たな世代こそ純粋にプリンス・ミュージックを「再発見」出来るのかも、と……。その最初の一撃にぴったりの作品が、このたび再発、リマスターされる彼にとって5枚目のアルバム《1999》なのではないでしょうか。
ともかく、まず《1999》に収録された超絶グルーヴ〈レディ・キャブ・ドライヴァー〉を聴いて欲しいんです。
僕は、プリンス逝去後に同じプリンス・フリークの向井秀徳君と彼のスタジオで楽器を演奏しながら(僕はドラム、彼はギター)インタビューを受けた時、ふたりでバンド、ザ・レヴォリューションが演奏するこの曲の話をしながら「クゥー!!!」と盛り上がった瞬間の快楽を忘れたことがありません。
手段はストリーミングなど、どんな方法でも構いません。そうすれば、今回発売される『1999:スーパー・デラックス・エディション』に、この「ヤバい」プリンス楽曲が65曲収録されていることに、我々プリンス・マニアが大興奮する意味がわかってもらえるはずですから。
今回、若い世代の読者のために、4回に渡る「《1999》再発をきっかけに。いざ、プリンス入門」と銘打った連載を始めるにあたり、まずは《1999》に至るまでのプリンスの軌跡を簡単に振り返ってみたいと思います。
1978年4月。プリンスこと本名プリンス・ロジャー・ネルソンは、わずか19歳10ヶ月(!)にして、すべてのヴォーカルのみならず、ドラム、ギター、ベース、鍵盤、シンセサイザーなど全楽器をたったひとりで演奏、プロデュースも自身で行った《フォー・ユー》でデビューしています。成人前の出来事です(笑)。実力がある早熟の天才と言うだけでなく、地方都市ミネアポリスに生まれ育ちながら、メジャー・レーベル、ワーナーと大型契約を交わしただけでなく、プロデュースまで任せられたという超異例の待遇。後のプリンスを知る者からすれば、聞き慣れた当たり前の歴史ではあるのですが。
セカンド・アルバム《愛のペガサス》からは、グルーヴィーなポップ・チューン〈ウォナ・ビー・ユア・ラヴァー〉が、全米ビルボード・シングル・チャート第11位のスマッシュ・ヒット。
1980年、サード・アルバム《ダーティ・マインド》は、全二作と比べ格段にチープでルーズなサウンドのままリリースされました。そもそもデモ・テープのつもりでプリンスが作った「メモ」を荒削りなまま発表。その結果、キャッチーなメロディと「何かが足りない」サウンドがかえって癖になる不思議な魅力を持つアルバムになったんです。メロウでファンキーな《愛のペガサス》と、ロック・バンド、パンクのファンにも親しみやすい《ダーティ・マインド》は方向性はまったく違うんですが、個人的にこの二枚も「プリンス入門」にぴったりだと若いミュージシャンの後輩などには勧めています。
さて、プリンス。1981年秋の4作目《戦慄の貴公子(コントロヴァーシー)》をリリースする頃には、同業のミュージシャンからの音楽的評価、信頼もウナギのぼり。まぁ、ギターもピアノもベースもドラムも全部を異常なまでのハイ・レベルで軽々演奏する彼を見れば、多少卑猥な歌詞や、裸にビキニ、ハイヒールという謎のステージ「衣装」に意表を突かれながらも、先輩や同僚も音楽的力量を認めざるを得ないという感じだったでしょう。
特にプリンスの才能に惚れ込んだミック・ジャガーは、1981年10月9日と11日、ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで行われたローリング・ストーンズの2日間の前座パフォーマンスをプリンスに依頼しています。招かれて演奏したそのステージで、この時期のプリンスの置かれた立場を象徴する「ローリング・ストーンズ前座事件」が勃発したのは、両者にとって悲しい出来事でした。
なんと会場に集まったストーンズのファンたちが、トレードマークが「トレンチコートと黒ビキニ」時代のプリンスがステージに現れるやいなや、罵倒とブーイングを繰り返し、ドリンクのカップや靴を投げ込み、演奏を妨害したんです。開始20分でプリンスはステージを降りる羽目に。
その夜、ミック・ジャガーは自分たちのファンの反応に激怒し、オーディエンスに向かってこう言い放ったといいます。
「プリンスがどんなに凄い奴なのか、オマエらにはわからないだろう」
しかし、この一件すらも後に「伝説化」。プリンスのカリスマ性を高める効果をもたらします。
「ローリング・ストーンズ前座事件」を経験したその先に、彼の長く輝かしいキャリアの中でも、急上昇する時代と完全にリンクした1980年代半ばまでの「プリンス現象」が……。ビジネスを繰り返す中で勝手に白人化された「ロック・ミュージック」を、黒人音楽家の元に取り戻す革命が訪れるのです。
デビュー5年目の彼の、勢いに乗りまくった空気感を丸ごと真空パックしたのが、1982年10月27日にリリースされた5作目のアルバム《1999》。『1999:スーパー・デラックス・エディション』には、1981年11月から1983年1月の間に収録された23曲の未発表スタジオ・トラック(!)に加え、1982年11月30日のデトロイトでの未発表ライヴ音源、そして同年12月29日、ヒューストンでの未発表ライヴ映像までもがDVDに収録されています。要するに、お宝のてんこ盛りです!
それでは次回から詳しく、今回の再発で発表される作品群も含めた《1999》の深淵を皆さんと共に覗いて行きたいと思います。
【第二回はこちら】
【第三回はこちら】
【第四回(最終回)はこちら】
西寺郷太(NONA REEVES)
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