BOXセットは売り切れ間近!【最終回】ミュージシャン、音楽プロデューサーの西寺郷太氏(NONA REEVES)がプリンスの名盤『1999』のデラックス版の聴きどころを4回に分けて徹底解説する連載

 発売された『1999:スーパー・デラックス・エディション』は、ライヴ盤を含むCD5枚組、DVD1枚。特にこの度、正式に初めてリリースされた1982年11月30日のデトロイト公演を収録したライヴ・アルバムと、同年12月29日のヒューストン公演の映像を繰り返し観ると新たな発見も。

 改めて記しておくと、こうして4回に渡る連載を書いてきた僕もこの「1999・ツアー」まではリアルタイムで追えていない世代なんです。まだこのツアーが開始された時点では、8歳だったので……。とは言え、9歳になって、つまり《1999》発売から半年も経たない間に、《スリラー》旋風に飲み込まれるようにマイケル・ジャクソンの魅力に取り憑かれた僕は、最大のライヴァルと喧伝された「怪しげでなんとなく卑猥」なプリンスのミュージック・ヴィデオにたびたび音楽番組で出会うことになります。


 第一印象は、ともかく「大嫌い」の一言に尽きました……(笑)。大好きなショートケーキの上に「ミョウガ」や「納豆」のような癖のある匂いの食べ物をかけられたような。子供の僕にはグロテスクなほどセクシュアルに縦横に動く唇や髭。マイケルのムーンウォークやダンスは「カッコイイ!」と素直に引き込まれたのに、ヘアスタイルやムードはなんとなく似ているのに圧倒的にイヤらしいプリンスがチャート番組などで少しでも登場すると、子供心に「見たくないものを見てしまった」と目を逸らすほどにヌメヌメして気持ち悪くて(笑)。まだ、小学四年生でしたし。ただしばらくすると最初は本当に背筋が凍るほどなんだか怖かったプリンスという存在が、だんだん気になり始めてゆくんですよね。「嫌い嫌いも好きのうち」と言いますか。


 プリンスに「ハマる」決定打は、中学校で英語教師をしていた父親にマイケルや、ワム!、カルチャー・クラブなどを録画していたVHSにたまたま録画されていたプリンスの映像、まさにこの時期のバンド・メンバー、デズ・ディッカーソン(ギター)、ブラウン・マーク(ベース)、マット・フィンク(キーボード)、ボビー・Z(ドラム)とリサ・コールマン(キーボード)によるライヴシーンを中心とした〈リトル・レッド・コルベット〉や〈1999〉のビデオを観ているのを見つかった時に訪れました。当時、一部の耳の早い中学生の間でもプリンスが話題になっていたのでしょう。昭和の学校に存在しがちな熱血生徒指導の権化のような父親は学校に持ってきた生徒のLPを、しばらく取り上げ、預かったりした経験もあったようで「郷太!マイケルはいいけど、プリンスは絶対あかんぞ!!めちゃくちゃエロいこと歌ってるともかく変な奴なんだ!」と激怒されたんです。彼は英語がわかるので、マスターベーションやSEXに纏わる直接的に性的な、子供にとってはとんでもないことを歌っていると理解してしまっていたわけです。

 その後ろで、母親も泣いていました。「小学生には、小学生の聴く音楽があります……!」と、彼女が絞り出すように呟いたのを今でも覚えています。小学校教諭だった母親の拒否反応も、ともかく大袈裟で。で、なんと「プリンス禁止令」が、西寺家で1983年から1984年にかけて発令されてしまったわけです。


 このエピソードは、ラジオや僕が上梓した「プリンス論」(新潮新書)などで何度も話しているのですが、結局こうして親から止められ、禁止されたことで僕は逆にプリンスが好きで好きでたまらなくなっていくんですね。皮肉なもので。厳格な親が隠せば隠すほど、止めれば止めるほど好奇心旺盛で反抗期に突入しようとする子供達は、その対象に夢中になってしまう。9歳の僕だけではなく、この時期の世界中のティーンネイジャー、小・中学生も同じだったように思います。実際、今回発表されたのライヴ映像にもベッドが登場し、上半身裸で腰を振るプリンスの姿を目撃してしまえば、子供が観るのを阻止する気持ちは親になってみればよくわかるのですが。特に言葉の意味が伝わる英語圏ではなおさらだったことでしょう。


 しかし、それもまたプリンスの壮大な「作戦」のひとつだったんだな、と。インターネットの浸透していない時代。「ともかくとんでもないことがライヴで行われている。俺は、私は、観た!体験した!」という悪評も含めた口コミが広がることで、彼のカリスマ性は倍々ゲームで増していきました。軌跡を追いかけてゆけばため息が出るほどの戦略家なんです。

 ちなみに「神國」という漢字と日の丸バンダナがトレードマークだったギタリストのデズ・ディッカーソンは、プリンスがギターを使ってマスターベーションを模した動きをする〈ヘッド〉の演奏を家族に見せたくないから、セットリストから外してほしいとプリンスに懇願したそうで。結局、メンバーの投票で却下されるわけですが、その出来事もひとつの契機に彼はバンドを抜けることになったりも。メンバーですら、過激に性的な表現にとまどいがあったという逸話として紹介しておきます。


 さて、「1999・ツアー」の前座は、プリンスがプロデュースを手掛け、デビューと同時にスマッシュ・ヒットを記録していたヴァニティ6と、プリンスの完全バックアップでスターダムを駆け上っていた凄腕集団ザ・タイム。

 ザ・タイムがヴァニティ6のバック・バンドを担当。1980年代のプリンスを語る上で、ひとつの大切な鍵を握る才女ジル・ジョーンズが、プリンス・バンドとヴァニティ6のバック・ヴォーカリストとして帯同しています。

ちなみに、このツアーの終了をもって、ザ・タイムのメンバー、ジミー・ジャムとテリー・ルイスが解雇されてしまったエピソードはあまりにも有名。

 ツアー合間の二日間の空き日に、SOSバンドのプロデュース業を引き受けたジャム&ルイス。予期せぬブリザードにより、飛行機が飛ばず、3月24日のサンアントニオ公演を急遽ドタキャンしてしまったんです。その後、ジャム&ルイスは結果的に「ミネアポリス・ファンク別働隊」として、デビューから数年伸び悩んでいたジャネット・ジャクソンのパートナーとなり、1986年に共に大傑作『コントロール』を完成させ、それ以降のブラック・ミュージック、R&Bの中心的存在となってゆくのですが。


 第一回の連載でも記しましたが、プリンスのデビューからのアルバム《フォー・ユー》《愛のペガサス》《ダーティ・マインド》《コントロヴァーシー》までは、ごく一部の楽曲で他のミュージシャンの参加がある程度で、基本的にはプリンス単独で多重録音が行われてきました。ポップ・ミュージックで必要とされる、ドラム、ベース、ギター、鍵盤、そして歌という基本的な楽器を自在に弾きこなす凄い男、というキャッチフレーズ、代名詞がある程度浸透してきた、デビューから4年半という勝負時。

 当然、ひとりで様々な音やヴォーカルを作り込み重ねたレコードと、ライヴでのシンプルな生演奏には「差」が生まれます。サード・アルバム《ダーティ・マインド》からは、より音数が少なく、それでいてキャッチーに響く「ロック」的なフォーマットで音源も発表してきたプリンスでしたが、その人気の爆発でより会場のサイズが拡大し、動員が増えたことで「アリーナ仕様」のアンセム的楽曲も増えたのが、アルバム《1999》。それ以前のトレードマークであった「裏声」「ファルセット・ヴォイス」による楽曲も減り、喉を鳴らす地声での歌唱もどんどん増加しているのがライヴを見てもわかります。例えばオープニングの〈コントロヴァーシー〉は、とてつもなくカッコいいですが、プリンス自身は音源と違い、地声で叫んでオーディエンスを煽る別のスタイルで固めていますね。

 ライヴ音源を今の観点で聴き直して、改めて感じたのが、後のブラック・ミュージック、ポップ・ミュージックに与えたプリンスの影響の大きさ。特に〈ドゥ・ミー・ベイビー〉のライヴならではのロング・ヴァージョン、アレンジでイントロから歌い出しまでを2分30分以上伸ばしたインストゥルメンタル・パートを聴いてみて欲しいんです。

6年後の1988年、ニュー・エディションを脱退したボビー・ブラウンが発表し空前のヒットとなったアルバム《ドント・ビー・クルエル》収録のヒット・シングル〈ロック・ウィッチャ〉のメロディがそのまま歌えるんですよね。

〈ロック・ウィッチャ〉は、LA&ベイビーフェイスによるプロデュース。そして、彼らが手がけ、同じくニュー・エディションにボビーの後釜として入ったジョニー・ギルによる90年代ソウル・クラシック〈マイ・マイ・マイ〉にも大きな影響を与えているな、とも。〈マイ・マイ・マイ〉は、ジョニーのライヴの中で「記録破り」と言われるほどにバンドやオーディエンスとのコール&レスポンスで尺を伸ばし、焦らしに焦らし、最後にジョニーの野太いシャウトが大爆発するアレンジで知られています。1956年生まれのLAは、プリンスと同じ誕生日6月7日生まれで2歳年上、1959年4月10日生まれのベイビーフェイスはかろうじて一歳プリンスより年下なだけなので、ほぼ同世代なわけですが、デビューが異常なまでに早かったプリンスに比べれば、多少「遅咲き」の彼らが、プリンスのツアーでのアレンジメントから大会場で「映える」バラードの雛形〈ドゥ・ミー・ベイビー〉を参考にしたことは否定できないか、と。


 ポイントは、それまでのソウル・バンド、ファンク・バンドのバラードの演奏のほとんどが、ある種人間的にホットでドラマティックな「生感」に満ちたパッションを放っていたのに対し、「ザ・レヴォリューション」メンバー、ボビー・Zのドラムは、むしろマシナリーでスクウェアなビートをキープし、メカニカルなクールさを保っていること。それがプリンスの指示、プロデュースによるものであることは明白ですが、リサ・コールマンのキーボードやブラウンマークのベースも基本はサンプリングのようにループ感に溢れていて。そのストイックさこそが、次世代、よりマシン・プログラミングによるビートに直結した世代、ニュー・ジャック・スウィングと呼ばれたムーヴメントの中でも遺伝子として強く生き残った理由なのだろうと。


 あまりにも目を引くセクシュアルなパフォーマンスや、プリンス自身の躍動、存在感にフォーカスが当たるのは当然として……。今回、何度も何度もライヴ映像を現在の視点で見返して、気づいたのは、ヒップホップがアンダーグラウンドから台頭してきたこの時代、結果的に1982年の段階で「機械的に抑制されたビート」と「有機的なメロディ」が組み合わさることの快感の果てしなさを提示していた、その先進性についてです。プリンスの、ある種のニューウェイヴ的なその感性こそが「80年代」音楽を革新したと思うんです。彼はまさに音楽家から尊敬される「ミュージシャンズ・ミュージシャン」でしたから、白人も黒人も我々のような日本人も、アーティストや制作陣が大なり小なり皆がプリンスの影響を受け、それぞれの音楽性の血肉としていきましたから。逆に影響が多大過ぎて見えないことも多いとは思うのですが。「何が新しかったのか?」って、その後の人が全員真似すれば混ざり過ぎて気がつきにくいものなんです。


 ストリーミングで沢山の音楽が自在に聴ける今だからこそ……、もちろんこの『1999:スーパー・デラックス・エディション』も音に関して言えばすんなりと聴けてしまうわけですが、実際にこうして丁寧にパッケージされたボックスとして《1999》を手にとり、愛に満ちたダフ・マッケイガンのライナーノーツなどを読みつつ聴きかえし、映像を観る悦びは別格だな、と再認識しています。

 40代半ばの僕も、改めてまずここから、「40年近く経って、新たな世代に手にしてもらえる作品とはどういうパワーを持っているのか」ということを学ぶような想いです。若い世代にも伝わってくれれば嬉しいな、と思います。


 プリンスは、1994年にリリースしたアルバム《Come》のジャケットに「1958-1993」と刻み、自分はすでに死んでいると宣言して周囲を困惑させた、と最初に書きました。


 その時、彼はジャケットの撮影場所にアントニ・ガウディが手がけたバルセロナの巨大教会、サグラダ・ファミリアを選びました。1882年に着工されたサグラダ・ファミリアには、永遠に完成しないのでは?などという噂もつきまとっていましたが、技術革新によって来たる2026年、めでたく完成するとのことです。


 しかし、プリンスの未発表曲、アルバムの再パッケージと再評価の波は、まだまだ終わりが見えません。1999年を超えても彼のパーティは続いたように、きっとサグラダ・ファミリアが完成する2026年を超えてもプリンスの遺した音楽の再発見は続くことでしょう。クリスマスやこの冬の誕生日、音楽好きな大切な人に、このボックスをプレゼントするのはどうでしょうか?何十年経っても解けない、飽きないミステリーが、ここには詰まっていますから。


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西寺郷太(NONA REEVES)

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