【第2回】ミュージシャン、音楽プロデューサーの西寺郷太氏(NONA REEVES)がプリンスの名盤『1999』のスーパー・デラックス・エディションの聴きどころを4回に分けて徹底解説する連載

 《1999》が発売された、1982年10月27日時点のプリンスは、24歳。デビューから5年目。表情も立ち位置も含め余裕と貫禄たっぷりですが、まだめちゃくちゃ若いですよね……。


 80年代を迎え、周囲から新時代ロック、ファンク・ミュージックの旗手と見做され始めたプリンス。そのエネルギッシュかつ自由自在にギターやピアノを奏でるステージ・パフォーマンスによって熱狂的な信奉者の数を続々と増やし、コンサート会場の規模はどんどん拡大し続けていました。ただし、彼は「ヒット・アルバム」からシングルをカットしながら、地道なツアーを続けてゆくのみという、通常のソロ・アーティストが歩む成功サイクルから逸脱してゆきます。


 ここからは話が、いきなり読む若い方には少しややこしくなるのですが、どれだけわかりやすく説明しようとしても複雑にならざるを得ないんです(笑)。それもまたプリンスというポップ・ミュージック史上稀にみるワーカホリック、多作家の謎めいた創作活動の連打が刺激に溢れたものであり、活動が多岐に渡るゆえということでどうかご容赦ください。これを読んでいると、二十歳前の人ですら、正直、自分のことを「若い」とは思えなくなって悲しくなるかもしれません。僕も何も成せていない十代の終わり頃、そう思い絶望していました。なんと言っても、プリンスが自分でプロデュースして作詞・作曲・全楽器を演奏してデビューしたのが、18歳ですからね。嫌になります(笑)。


 プリンスは前年、23歳の時点。1981年7月にプロデューサーとして、地元であり本拠地ミネソタ州ミネアポリスの音楽仲間たちが結成したバンド「ザ・タイム」をレコード・デビューさせ成功に導いています。「ザ・タイム」プロジェクトにおいて試みたアルバム制作、リリースのスタイルは、以降しばらく続くプリンスの他者への楽曲大量提供、プロデュース・モードの雛形を作りました。

 初期「ザ・タイム」のメンバーは6人。ヴォーカルを担当したのが学生時代からのプリンスの親友で名ドラマーでもあるモーリス・デイ。演奏陣は、いずれも凄腕の猛者ばかり。ジェシー・ジョンソン、モンテ・モア、ジェリービーン・ジョンソン、そして後にプロデューサー・チーム「ジャム&ルイス」として、ジャネット・ジャクソンとの《コントロール》《リズム・ネイション 1814》を筆頭に、80年代半ば以降の音楽シーンを牽引してゆくジミー・ジャムとテリー・ルイス。


 音楽史に名を刻むミュージシャンを完璧に揃えつつも、デビュー・アルバム《ザ・タイム》に関し、プリンスは幼馴染モーリス・デイのヴォーカルとドラム以外、ほぼすべての楽器をたったひとりで演奏しています。なにより不思議なのは、このアルバムのクレジット表記。公式に自分の関与を誇示するわけでなく、「ジェイミー・スター」なる変名で関与を隠したこと。この流れは続きます。

 1982年8月11日には、卑猥な歌詞とランジェリー姿をトレードマーク(?)とした女性三人組「ヴァニティ6」のアルバム《ヴァニティ6》を、作詞・作曲・演奏も含めプリンスが完全制作。数曲で「ザ・レヴォリューション」のメンバー、デズ・ディッカーソン、ザ・タイムのジェシー・ジョンソン、テリー・ルイスらが協力した、彼女たちにとっての唯一となるこのアルバムからは、ファースト・シングル〈ナスティ・ガール〉が、ビルボード・ダンス・ディスコ・チャートにおいて、4週間首位に。

 そして《ヴァニティ6》から、わずか二週間後の8月25日。矢継ぎ早にパーティ・ファンク・バンドとして勢いに乗ったザ・タイムのセカンド・アルバム《ホワット・タイム・イズ・イット?》をリリース。全米ビルボード・200・アルバム・チャートでは、第26位。ビルボード・ソウルLP・チャートでは、第2位まで到達するスマッシュ・ヒットに。レコード制作には、この時点でほぼ参加させてもらっていませんでしたが、そもそもが実力派集団のパーティ・バンド「ザ・タイム」は、絶対的フロントマン、モーリス・デイのスター性、コミカルなパフォーマンスと演奏陣との化学反応も抜群で、一時はプリンス自身よりも人気を集めるほどの勢いも。


 これら変名でのプロデュース業は、彼のワークスの全貌を掴みづらくし、より一層「神秘性」を高めてゆきました。そんな怒涛のリリース・ラッシュの中で満を持して発表されたのが、バンド・メンバー「ザ・レヴォリューション」の面々も一部参加した、まさに革命的勝負作《1999》だった、というわけです。


 新世代の絶対的スーパースターの座を虎視眈々と狙いながらも「わかってもらうためにレベルを下げる、簡単にするだけ」ではないのがプリンス流でした。彼のイメージ・カラー「紫(パープル)」を決定づけるジャケット、ワード、映像的魅力にも満ちた《1999》を今もなおプリンスの最高傑作に挙げるファンは数多く存在します。

 《1999》は、全11曲ながら、約9分半にも及ぶ〈オートマティック〉、8分を超える〈D.M.S.R(ダンス、ミュージック、セックス、ロマンス)〉を含む超絶ファンキーでダンサブルな長尺曲が多く、二枚組に。完成に至る際、「価格が上がることで売り上げ枚数が減る」というレーベル側からの懸念も投げかけられました。結局、プリンスは信念を曲げなかったわけですが、今回リリースされる『1999:スーパー・デラックス・エディション』に収められたB面曲、未発表曲を聴けば、二枚組ですら当時の彼の旺盛な創作活動の、ごく一部を切り取っただけに過ぎないことが伝わることでしょう。


 ただし。ハードルを高く上げたり、難解なだけではないところこそが、プリンスのプリンスたる所以。白人ティーン層、そして、いわゆる「ロック・ファン(この表現は好きではないですが、敢えて当時の時代性も鑑みてこう表現します)」にも受けるポップ・ソング、シングル・ヒットが集められた「レコードA面」のキャッチーさ、破壊力は半端ない。

 プリンスは、本作で初めて大々的にメンバー・チェンジを繰り返しつつも固まりつつあったライヴ・バンド「ザ・レヴォリューション」の面々を、「個」でなく「塊」としてレコーディング・スタジオにも迎えました。特に、冒頭のアルバム・タイトル・トラック《1999》での、歌い出しがジル・ジョーンズとリサ・コールマンの女性陣、次がギタリストのデズ・ディッカーソン、そして3人目にようやくプリンス、という意表をついたスライ&ザ・ファミリー・ストーン的な「グループ歌割り」は、それまでのプリンスの「ワンマン・イメージ」を知る者にとって、かなり新鮮だったことでしょう。

 当時、小学4年生だった僕も、初めて観た〈1999〉のビデオで、プリンスが出だしから歌わないことに驚いた記憶があります。プロデュース・ワークでの「変名」や、こういった「いきなり前に敢えて出てこない」演出こそが、神秘性、カリスマ性を高めることを彼は理解していたのだと思います。


 プリンスの凄みは、シングルだけに留まらず、そしてアルバムが二枚組であったとしても、そこに収録された楽曲だけにも留まりません。

 時代によって「無限の宇宙」が存在し、芳醇で、ファンキーでエネルギッシュでキュートかつ驚異的な楽曲群が様々なスタイル、名義で無尽蔵に生み出され、ヴァージョン違い、編集違いを求めて様々なレコードやCDを(今よりも情報が手に入りにくかった時代に)財宝探しのように、買い集めることでどんどん深みにハマってゆく。


 ディスク2に収められたシングルB面曲の数々のクオリティにも目を見張るものが……。2001年にアリシア・キーズが新解釈でカヴァーし、シングル・カットした〈ハウ・キャン・ユー・ドント・コール・ミー・エニモア?〉は、リード・シングル〈1999〉のB面曲。大抵のレベルのアーティストであれば、生涯この一曲だけを残したとしても名刺代わりになる名作。


Alicia Keys - How Come You Don't Call Me (Video)


 サード・シングル〈デリリアス〉のB面曲は、エルヴィス・プレスリーが黒人音楽を再解釈したロックンロールを、ユーモラスな批評性を持ちながら逆輸入した〈ホーニー・トード〉。

 プリンスの狂おしいほどファンキーな全楽器単独演奏に痺れる〈イレジスティブル・ビッチ〉は、1981年後半にレコーディング。6枚目のシングル〈レッツ・プリテンド・ウィ・アー・マリード〉が、1983年11月にリリースされる際、鍵盤奏者のリサ・コールマンと、1983年に新しく迎えられたギタリスト、ウェンディの女性コーラスを重ね、B面曲として完成しています。

 2019年に、こうしてそれらの楽曲が可能な限り集約されてパッケージされることで、《1999》で彼が目指した世界の輪郭が朧げながらも掴みやすくなる、そんな気がしています。


 次回は、《1999》で彼の作品に訪れた「変化」、その最大のポイントである「歌詞」。ザ・タイムや、ヴァニティ6での戦略と、本体である自分自身の音楽性との違い。そしていかに、プリンスの描いた「未来像」が、その後の音楽シーンの動向を変えたのか……。その点について考えてから、1981年11月から1983年1月の間に収録された23曲の未発表スタジオ・トラックのいくつかについても触れたいと思います。


【第一回はこちら】

【第三回はこちら】

【第四回(最終回)はこちら】


西寺郷太(NONA REEVES)

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