【第3回】ミュージシャン、音楽プロデューサーの西寺郷太氏(NONA REEVES)がプリンスの名盤『1999』のスーパー・デラックス・エディションの聴きどころを4回に分けて徹底解説する連載
「プリンスのどこが、何が凄いのか?」と興味を持ってくれた友人に質問された時、どう答えるか。このことを30年以上考えてきて、まず最初はやはり「ポップ・ミュージックにおいて、重要なほぼすべての楽器を自由自在に演奏できる」という部分をプッシュすることにしています。シンプルに言えば「ライヴ」「ワンマン・レコーディング」。動画などで彼のステージやテレビ出演シーンをチェックするとほぼすべての人が「おー!」ということになるのですが。でも、単に色んな楽器を演奏出来る実演家という意味ならば、(プリンス・レベルの演奏家はいないことを前提にして敢えて書きますが)地球上に多数存在するかもしれません。
僕が尊敬するのはプリンスが単なる「夢想家」ではなく、どんなに困難な状況、歴史、賛否両論が存在しても、自分が描く未来像のために、きちんと段階を踏んで「トライ&エラーを繰り返しつつ」前進し続けた人だということ。
プリンスのキャリア、生涯を追いかけた時、二つの大きな目的が浮かび上がってきます。まずは「自分自身が最も自由な状態で、瑞々しい音楽生活を過ごせるために何が大切なのか、すべての前提を疑ってみる」。そして二つ目が「搾取され、差別されてきた黒人音楽の正当な評価を勝ち取る、そのための音楽業界全体の正しい仕組み作り」。
それらは合わせて「ミュージシャンの地位向上」とまとめられるかもしれませんが、「新しい価値観」というよりも、音楽業界、システムの中で培われた先入観や作られてきたルールに縛られず、本来しかるべき状態に戻す、という意味合いが強いかと。聡明な彼にしてみれば「当然」のことが、なかなか理解されない世界が、彼がデビューして間もない頃にはガチガチに四方八方固められていた。でも、プリンスは諦めなかった。綿密な作戦を練り、倒されても、失笑されても、罵倒されても、実行し続々と成功させ世界のあり方を今、現在ある形に確実に変えた人なんです。そのことが最もわかりやすいのが、1980年代初頭、まさに《1999》制作前後の彼の描いたヴィジョン、実際の行動だったと僕は考えています。
今以上に「黒人音楽」、つまり「ファンク」「ディスコ」、アンダーグラウンド・シーンから生まれ爆発していた「ヒップホップ」と、「ポップス」、白人顧客層中心の「カントリー」「ハードロック」など人種による断絶が存在した1980年代初頭。問題が可視化されたのが、1981年8月にスタートし、若者文化を刺激したケーブルテレビ・チャンネル「MTV」の大流行でした。24時間ポピュラー音楽のビデオ・クリップを流し続け、絶大な影響力を誇ることになったこのチャンネルの当初のコンセプトは「ロック専門局」。「白人オンリー」の、とは宣言してはいないものの、ジャンルによって細分化されていたアメリカのラジオ局の伝統が当然のように「MTV」でも踏襲されていたわけです。有料のケーブル・テレビですから、貧困層は加入出来なかったという事実も指摘しておかねばなりません。
「MTV」によるトレンドの大転換をプリンスのソロ・ワークス、プロデュース作品のディスコグラフィーと照らし合わせると、前回触れた「ザ・タイム」のデビュー作のリリースとスマッシュ・ヒットが、まさしく1981年夏。プリンス自身も1981年10月14日に、4枚目のアルバム《コントロヴァーシー(戦慄の貴公子)》をリリースし、1982年夏までにシングル・カットを続けましたが、この時点ではまだ「MTV」は数少ない黒人アーティストのビデオしか流していません。本連載第一回で記した「ローリング・ストーンズ前座事件」は、まさにそのタイミング。プリンスが、白人だらけのストーンズ・ファンから受けた屈辱と試練の経験を《1999》創作のモチベーションにしなかったわけがありません。
僕が感嘆するのは、プリンスが1982年8月の「ヴァニティ6」のデビュー作と、ザ・タイムのセカンド・アルバム《ホワット・タイム・イズ・イット?》に関しては、それまでの「黒人音楽」的なひとつのルール、踊れて楽しい、セクシャルな気分をまぶして、というパーティ音楽のメソッドに純粋に完成させ、ヒットの結果に繋げていること。そこでのトライを確認した上で、渾身の自作、二枚組《1999》でプリンスは、これまで自分を支持してきた黒人リスナーや、何にでもケチをつけたがるうるさがたをも納得させながら、新たな層、つまり全米中に広がる膨大なる「白人ロック」ファンをも巻き込む「革命」を決行します。
先ほど、まず「すべての楽器を自由自在に演奏出来るのが、プリンスの凄さ」「困難な状況であっても、自分が描く未来像のために試行錯誤を繰り返し、変革してゆく不屈の精神」、その二つを述べました。が、それらを踏まえた上で、もっと先の究極の結論を言えば、僕は「作詞家」としてのプリンス、様々なネーミングなども含めた「言葉を駆使したコンセプター」としての頭脳こそが、凡百のミュージシャンとの最大の違いだと思っているんです。彼は「思想」を現実化するためには、「言葉」こそが武器であることを理解していた。だから、彼の歴史に登場する「あのベース・ラインは俺が考えた」「あのコード進行やメロディは俺が考えた」というミュージシャン仲間達、もちろんそれ自体は事実かも知れませんしどんどん主張するべきなのですが、それら「音楽脳」のみのミュージシャン達との間に、圧倒的な「差」がついてしまうんですよね。
作詞面で言えば、特に表題曲《1999》、この曲こそに稀代の詩人であり、戦術家としてのプリンスの凄みが顕著に表れています。込められたテーマ、示した姿勢は同時期に制作したであろう「ザ・タイム」とも「ヴァニティ6」とも、当然ですが全く違う。
「1999年に世界が滅亡するかも」という巷に溢れる「予言」を引用しながら、プリンスはこう歌います。「彼らは言う。2000年になればパーティは終わってしまう、と。皆、慌てて逃げ回っている。だが、俺は気にもしていない。でも、もしも仮に時間がないとするなら、人生をパーティだとするならば、俺は今夜自分の人生を思うままに踊り明かす。君達、皆もそうしないか?」
若い男女間のセクシュアルなラヴソングが多かったデビューから数年の楽曲群、そして徐々に、今でいう「炎上商法」ともとれるほど過激な性的描写も含む歌詞で社会的な規範に対するアンチテーゼとして機能してきた彼のイメージ。この《1999》において、プリンスは初めて一般大衆を扇動し、ステージ上や、レコード、映像からリーダーとして呼びかける「アンセム」を完成させたんです。そして、年号として17年後に迫る世紀末1999年を「具体的」に示すことで、その遠い未来までリスナーに逆算させ新世代の旗手としての地位も固めることに成功しました。
前回も述べましたが、最初はメンバーにソロ・リレーをさせた上で、「空が紫に染まっていた(The Sky was all purple)」という三つ目のパートから、真打プリンスが歌い始める展開。この時、日常生活に存在する「紫(パープル)」という色を、彼自身の独自のイメージと結びつけたこと、これこそ彼の作詞家としての才能の最たるものです。自伝的主演映画『パープル・レイン』に到達する道のり。紫を見るたびに、彼を知る者には強烈に「プリンス」が浮かび上がる図式を作り出したのも、このアルバムからです。
今回の『1999:スーパー・デラックス・エディション』、音源的な最大の目玉は、1981年11月から1983年1月の間に収録された23曲の未発表スタジオ・トラック。同時期に大量生産された、これらの楽曲がなぜ《1999》、もしくは「ヴァニティ6」のデビュー作や、ザ・タイムのセカンド・アルバムに収録されなかったのか?を作詞、という面で切り取って考えてゆくのも楽しみ方のひとつか、と。例えば、当初はザ・タイムのアルバムで、モーリス・デイが歌うことを想定していたというオーソドックスなバラード、「君を世界一周の旅に連れて行ってあげる」と歌う〈インターナショナル・ラヴァー〉のデモ(ディスク3/8曲目)を聴くと、この曲を急遽自分用の作品に戻し《1999》最終曲に選んだのは歌詞が思いのほか、イマジネイティヴに書けたからではないか、と。
人種や国籍のボーダーを越えてゆくプリンスが描く未来像、これからの旅にぴったりなこの曲をザ・タイムにあげるわけにはいかないと判断したのでは、と想像してみたり。〈インターナショナル・ラヴァー〉で、「もし君がいい子であれば、ダイヤモンドとパールを買ってあげる」と彼は歌うのですが、結果的に後のアルバム《ダイアモンド・アンド・パールズ》にも繋がる鍵となるメッセージでもあり。楽曲のメロディやサウンドのみならず、ひらめいた歌詞によって取捨選択が行われたのでは?と。
特に印象的な作品をピックアップしてみましょう。1989年に映画『バットマン』からのセカンド・シングル〈パーティマン〉のカップリング曲としてリリースされる〈フィール・ユー・アップ〉の初期ヴァージョン(ディスク3/1曲目)。ロカビリー調の〈ユー・アー・オール・アイ・ウォント〉(ディスク3/10曲目)を聴くと、「黒人アーティストがオールド・スタイルのロックンロールを歌う」ことがなぜか珍しい姿勢になってしまっていることを風刺しつつも、何度も針の穴を通すように試作しつつ〈ホーニー・トード〉(ディスク2収録)、そして傑作〈デリリアス〉にたどり着いた大胆かつ慎重なプリンスの思考が浮かび上がります。
同じくシンプルなロック・ナンバー〈キャント・ストップ・ディス・フィーリング・アイ・ゴット〉(ディスク4/7曲目)は、サウンドトラック・アルバム《グラフィティ・ブリッジ》からのリード・シングルとして1989年8月にリリースされましたが、「エルヴィス」的な野太いヴォーカルと、タフなドラミングが印象的なこちらの初期版の方がストレートで、シンプル。若い世代の方々には、ある種パンキッシュで、オルタナティブなこの素朴なヴァージョンの方が、ユニークな魅力が伝わるかもしれません。続く〈ドゥ・ユアセルフ・ア・フェイヴァー〉(ディスク4/8曲目)は、〈イフ・ユー・シー・ミー〉としても知られ、なんと1975年から存在した作品。プリンスが17歳の頃、所属した地元のバンド「94 East」のリーダー、プリンスの先輩、恩人のひとりであるぺぺ・ウィリーによる作詞・作曲。プリンスって、楽曲を大切にする人なんですよね。正式にリリースしなかった作品も必ず、時代を超えて手を加え、形にした人だということがこの曲への再トライをみてもわかります。
直球なまでにレゲエ・タッチのワンマン・レコーディング〈イフ・イロー・メイク・ユー・ハッピー〉(ディスク3/12曲目)も意外性に満ちていますね。こうして様々なジャンルをプレイしているのを聴くと、ドラムの上手さや楽しんでレコーディングしている空気感が改めて伝わってきます。〈つめたい素振り(ハウ・カム・U・ドント・コール・ミー・エニモア?)〉(ディスク3/13曲目)のアコースティック・ピアノ弾き語りヴァージョンもなぜそのまま収録しなかったのか理解出来ないほどに絶品。
ツアーのために作られたデモと記されている〈レディ・キャブ・ドライヴァー / アイ・ウォナ・ビー・ユア・ラヴァー /ヘッド/リトル・レッド・コルヴェット〉(ディスク4/11曲目)のメドレーも、腰が砕けるはず。
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